HELNWEIN ヘルンバイン写真集
Photographs by GOTTFRIED HELNWEIN
Text by TOSHIHARU ITO
発行日:1989年10月30日初版第1刷
写真:ゴットフリート・ヘルンバイン
構成・文:伊藤俊治
発行者:小川道明
発行所:(株) リブロポート
〒 171 東京都豊島区南池袋2-23-2
池袋パークサイドビル2F
☎ 03-983-6191
造本・装幀:箕浦 卓
印刷・製本:大日本印刷株式会社
黒い鏡
Ⅰ. 覚醒するヴァルネラビリティ
白い子どもたち
クロロフォルムを嗅がされて暴行を受け、虹色の光をゆらめかす水たまりに頭を浸し、心神喪失の状態で路傍に遺棄されている白いブラウスの少女、柔らかいベッドの上で頭部にぱっくりと傷口を開けた赤ん坊、熱のためにうぶ毛がすっかり逆立ち、全身は硬直し、赤い唇を震えさせている病んだ子、銀紙に包まれた大きなチョコレートを持ち、脚から血を流しながらひきつった笑いを浮べる金髪の子ども、頬や額に外科手術の荒い縫い目を刻みつけておびえる幼女、こめかみの上の絹のような淡い光沢が明るい茶色の髪と溶けあう。そして蒼白のシーツに横たわり、フォークやナイフやピンセットやメスの影におびえ、身動きもせず、静かな呼吸を繰り返す包帯少女たち・・・・・ウィーン幻想派以後にあらわれた最も衝撃的なオーストリアの画家といわれるゴットフリート・ヘルンバインの少女たちは、19世紀から20世紀にかけて、たくさんの少女画家たちがノスタルジーと感傷と濃密なイマジネーションでつくりあげた蠱惑的な薄暗い小世界から、いきなり明るみに引きずりだされる。
そこにはバルテュスの「部屋」のなかの少女たちが発散する時間への妖しい郷愁もなければ、シーレが「ゲルテ」に描いたような生へ連がるエロスのダイナミズムを秘めたかけがえのない存在としての少女もいない。さらにはクリムトの「メダ・プリマヴェージの肖像」のなかの少女から女へ変わる微妙な季節にあらわれる熱っぽい性へのオブセッションもなければ、ベルメールの「人形」のような恍惚と責苦の間に少女を位置させるような黒いエロチシズムも見ることはできない。
少女はバタイユのシモーヌのように聖性のシンボルでも、ナボコフのロリータのような至福空間をかたちづくるイメージでも、キャロルのアリスのような狂気を優しく封印してくれる愛らしさでもない。
ヘルンバインの “白いこどもたち”は、小宇宙のなかにとどまってはおられず、現実に揺り戻され、抗体を取り外され、生(なま)の刺激や病いをなんの前ぶれもなく、強引に、全身的に浴びせかけられる。少女たちは錯綜した現実感の真只中に放り投げられ、緊張する空気との接触によって激しい不安に追いやられ、見えない暴力の横行する空間に拉致されて様々な傷を受ける。ヘルンバインが描いているのは、少女ではなく、現実の空気の可視的な模型であるのかもしれない。少女たちはただその社会のテクスチュアのなかで絶え間なく傷つけられている存在のあかしなのだ。
少女たちだけではない。我々もまた現実のなかで常にこの空気にされされている。我々が傷つかない、いや傷ついていないと思うのは、我々が中枢神経網の整った成人であり、特殊な刺激に対して麻痺という反応で体勢を立て直す方法を知っているからである。強度の刺激に対し、我々の中枢神経は、その刺激で損われている器官や機能を自己防衛のために切り離すすべを知っている。中枢神経を脅かすものはすべて封じ込められ、局部化され、分析され、問題を起こしている器官の全面摘出にまでいたるのである。
今日のように我々の感覚がメディアによって拡張し、曝されている状況においては、我々はそれを麻痺させなくては自己を維持できないだろう。戦略的に神経に麻酔をかけ、無感覚にしていっているのだ。しかし、そこには暴力や刺激に対する正確な自己認識は成立しない。この世界全体が、痛みを感じないような一種の催眠状態(ヒブノシス)におちいってしまう。
けれどもヘルンバインの少女たちを凝っと見ていると、自分を幾重にも覆っていた薄い防禦膜が一枚ずつ確実に剥がされてゆくような気になる。体の層が透過され、「私」の皮膚は少女の肌へ連がってゆく。自分の傷つきやすさが知らずに蘇ってくる。ヘルンバインは人間のなかで最も傷つきやすい「少女」というものの形象を借りて、我々の偏向した感覚の矯正をおこなっている。少女たちと同じレベルで、自分の感覚を切断することも麻痺させることもなく、自らを取り巻いている本当の状況を、強烈で直接的な経験として、体感的にタブローのなかに刻印してみせるのだ。傷つけられてゆくのになんのなすすべもない脆弱なものの側に立った悲痛な眼差しを貫くことによって、個の内と外を同時に冒してくる見えない暴力性を絵に曝しだす。すべてのものが共有しているごく日常的な知覚的事実としてである。克明な描写のなかに恐怖や亀裂や精神的外傷が、普遍的な暴力の構造が現象としてあぶりだされる。我々のなかのものが絵の前で試されている。
時代の病理
ゴットフリート・ヘルンバインは1948年にウィーンに生まれた。ウィーンは1938年のナチス占領の開始から1945年まで、さらにはその終戦の年からソ連の占領が終わる1955年までの計17年間、外国に占領されていた都市である。戦後まもなくの1948年は、強姦のために生まれた赤ん坊の数は驚くほど多かったが、普通に生まれた赤ん坊の数は極端に少ない。子どもを育てるにはふさわしくないと判断したウィーン人がほどんどだったためであるという。ヘルンバインは “時代の病患に最も敏感に反応する町”で、そうした少数者として、“自分に似た人間がまわりにひとりもいないという感覚”のなかで少年時代を過した。
20世紀初頭にウィーン分離派の領主グスタフ・クリムトのもとに集まり、1910年代に大きく花開いたウィーン表現主義の画家たち、ココシュカ、シーレ、ゲルストル から、第2次大戦直後にウィーン美術アカデミーのギュテルスロー教授のもとで研摩し、1960年代に国際的な評価を得たウィーン幻想派のハウズナー、フックス、フッター、レームデン、ブラウアーにいたるまでの20世紀オーストリア美術に一貫して流れる黙示録的な衝撃力の洗礼をヘルンバインは受けている。彼もまたココシュカが描いた童話 “夢見る少年たち”の1人なのだ。極度に鋭敏で繊細な子どもたち・・・・・いつのまにか心に傷を受けてしまう世代は、内部に壮麗なビジョンを生み、克明な観察を外部へはりめぐらす。
ウィーンという土壌に深く根ざされた “皮下に達する” リアリスティックなアートの視点を受け継ぎ、臨床学的な痕跡の助けを借りて、精神環境を表現しようとする方向へ彼は向っていった。
1965年、教育と実験のためのグラフィック専門学校へ入学し、4年後、ウィーン美術アカデミーの“最初の心理分析の画家”ルドルフ・ハウズナー教授の教室に進んでからはメキメキと頭角をあらわし、マスター・スクール賞を受賞したり、最初のスタジオを与えられたりしている。70年にはウィーンのナイト・ギャラリー・アトリウムで最初の個展、71年にはグループ「ツェトウス」を設立しグループ展をおこない、さらにメートルリンクのギャラリーDで個展をやり、その過激さゆえに作品が市長に没収されるという異常事態が起り、この頃から、硬直した美術界や美術教育に対する批判的言動が激しくなり、要注意人物として官憲からマークされるようになる。
翌72年には新聞社でおこなった個展が、「グロテスク」「残酷」というジャーナリストたちの抗議により3日間で閉幕に追いこまれ、この年以後、ヘルンバインは自分の仕事の主要な発表の場を新聞からレコード・ジャケットまでのマス・メディアの求めるようになってゆく。「プロフィル」誌に、「オーストリアの自殺」特集のための表紙を描いたのが始まりであった。
(子どもが手首をカミソリで切って血を噴き出している最中の情景を描いたこの表紙は、読者から強い反発が起こり、その多くが予約購買を解消した。)
「今の時代、美術は壁のポスターやレコード、雑誌でおこなわれている。500年後に “20世紀の芸術とは何だったのか?”と誰かが考えた時、どうだろう、彼は『12音階音楽』を思うだろうか、それともトーマス・ベルンハルトやフルクサスを思うだろうか。私は彼が考えるのは、ロックンロールやハリウッドやドナルド・ダックだと思うね。今世紀の最もおろかな考えは、アートを “まじめなもの”と、“楽しいもの”とに分けることだよ。私には信じられない。つまりまじめなものは価値があり、楽しいものは質が劣るということだ。私に言わせれば、楽しくないものは面白くないし、強い体験を提供できないものはアートではないんだよ ★1」
74年に彼は「プレイボーイ」誌のためにギュンター・グラスの「左利き」のイラストレーションを描いたのをきっかけに、やがてオーストリアだけでなく、広くドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどに積極的に出かけていって自己の表現をマスコミに通し始めた。「デア・シュピーゲル」誌の「婦女暴行」特集のための表紙、「クローネン・ツアイトウンク」誌にフットボール・スター、ハンス・クランクスの肖像、スコーピオンズのLP「ブラックアウト」のための絵「医学」、「プロフィル」誌の「アレルギー」特集や「ヘロイン」特集や「強姦」特集のためのカバー、「シュテルン」誌のためのミック・ジャガーのポートレイト、「タイム」誌のための「性病」をテーマにしたカバー・・・・・へルンバインが起用される時の題材の特異さに注目すべきだろう。
さらに彼は「ペントハウス」誌や「エスカイヤ」誌、「オムニ」誌などに大きく紹介されてゆくが、そうしたメジャーな仕事とは別にパーソナルな活動やアクションも平行しておこなっていたことを記しておかねばならない。
生命のヴァルネラビリティ
76年にはウィーンにディーター・シュヴェルトバーガーと「芸術とコミュニケーションのためのセンター」(展示会、コンサート、映画、読書、アクションのためのもの)をオープンさせ、国際児童年の催しに参加し、エドガー・アラン・ポーの作品のためのドローイングの個展を開き(アルベルティーナにて79年)、路上イベントの写真を撮り、82年にはラジオ番組で、中性子爆弾の発明者を名指しで批難、また学校での美術教育システムを批判し、自殺率の高さを指摘し、学校を離れて1日を過してみることを若い人たちへ呼びかけている(この番組は打ちきられたまま再開されないでいる)。
非行、麻薬禍、自殺、核、性犯罪といった社会暴力の問題が急速に浮上してきて、ジャーナリズムがもはやそれを避けて通ることができなくなっていった70年代中頃から、へルンバインはそうした特集を組む雑誌の誌面を活性化するアーチストとして大きくクローズアップされ、マス・メディアに迎えられるようになっていった。そしてその絵のタッチは年ごとに強いインパクトを持つようになってゆく。
へルンバインの絵の第一の特質は、まずその写真性といえるだろう。彼の絵はほとんどが自ら撮った写真をベースにして描かれている。自分の長女メルセデスに包帯を巻きつけて路上に放置した写真や事故で顔が変形したカーレーサー、ニキ・ラウダの肖像などを見れば、その写真家としての資質にもなみなみならぬものがあることがわかる。彼の前世代であるウィーン幻想派の画家たちがおちいった絵画的な限界をへルンバインは写真の眼によって突き抜けようと欲した。「象徴」と「比喩」で曖昧にされた無意識の流れを “他者の眼” によって顕在化しようとした。
この点において、へルンバインは彼の活動開始とほとんどパレレルにアメリカで起っていた、リチャード・マクリーンやジェームス・ヴァレリオ、チャック・クロースらによるラジカル・リアリズムの一派と通底しあう。皮膚呼吸や発汗作用までもすくいとろうとする写真レンズの視点は彼らに共通するものであり、彼らはともに、対象の侵入を、日常における人間の麻痺した眼差しではなく、無防禦な白痴化した人や無垢な嬰児の眼とそっくりのカメラの眼差しを借りて、全的に受け入れようとした。
しかしアメリカのラジカル・リアリズムの画家たちの多くは、バイク、自動車、ウインドウ、ネオンといった無機物や、牛、馬、野菜、樹木などの動植物へ向っていったし、人間を相手にした画家たちでさえ、そのほとんどは人体の部分を描いたり、無感動な表情を強調したり、無機的な都市風景に埋没している人物をテーマにするという具合だった。そこには経験も感情もなく、ただ観察あるのみであり、それが彼らの根本的なポリシーとなった。
へルンバインのラジカル・リアリズムが特異なのは、その視線の多くが恐怖や苦痛や苦悩が表面をかすめさってゆくまさにその一瞬の人間の生理的条件にまで向けられているという点だろう。彼は人間を写真に撮る時、そのようにして撮る。写真の最も写真らしい特質を前面に押しだし、それは鋭く、深く、瞬時に我々を切りつけ、破裂寸前の感情、冴えた空気がヴィヴィッドに伝わってくる。
写真の死性、暴力性を強く意識した眼差しといえるだろう。写真の形象は空間暴力の本質をあらわしてはいないだろうか。写真は自分の死に向かって進んでいる生命のヴァルネラビリティを明らかにする。一瞬のうちに現在を過去に、生を死に変質させる写真の出現によって死の機械化は一拠に定着されたことを思いおこす必要がある。一枚の写真は、人間と死との関係を描いたどんな芸術作品よりも(例えば “死の舞踏” をテーマにした一連の絵画郡よりも)直接的、感覚的にその関係を露呈し、真実性を帯びていたのだ。
ヘルンバインが写真を使ったのは、写真が空間の死性をあらわす最も特異なメディアとなっていつのまにかまわりにたちこめていたからである。写真の拡散と浸透によって、死の映像は麻酔をかけられ本質的な現実味を失い、我々の感覚もまたあらゆる残虐性に対して感覚を麻痺させていたとしても、写真は生から死への移行を機械化する手段として変わらずにあり、写真の死に対するこの無感情は、我々が気づかない大きな影響を我々自身に及ぼし、死への感覚はより深い亀裂となって現代の深層に宿っている。
ヘルンバインはそうした写真の意味を認知して、自らの絵にこの写真性を取りこもうとした。写真が他者の侵入の様態を体現していることを彼は知っていた。そして写真が現代の空間の構造そのものであることを彼は絵で原理的に示そうとしたのである。空間を支配しているのは、交感(コミュニケーション)ではなく、暴力(デス・コミュニケーション)であることを。
見えない暴力
表面的な、外的な暴力ばかりではなく、見えない循環する暴力が今、我々のまわりを流れている。この無差別の相互的な暴力から救済されるには循環の自己分断を繰り返す他はないが、これには臨界点があり、それを越えると自爆する。この危機をのりきるために発動されるのが、スケープゴート・メカニズムと呼ばれるものである。錯綜し、混乱し、自己に累積してゆく暴力をどこかへアースするのだ。差異を見つけてより弱い、より暴力にまみれていない部所へ暴力を通す。これによって秩序は、無差別の暴力から救済され、かろうじて定位する。現代社会ではこのスケープゴート・メカニズムが、奇妙な形になって、いわば 〈気体状〉になってすみずみにまで浸透している。抑圧されたものが次から次へとより弱い者へ、より弱い者へと暴力をふるうチェーン・バイオレンスの構造、暴力は連鎖し、最も弱い所へ集中する。人間のレベルではスケープゴートはいつも子どもたちだ。少年少女が、新生児が、胎児がこの無慈悲な犠牲者となる。そして、「ニュージャージィーの150人の幼児強姦者を調査した結果、その75%が子どもの時に性的虐待を受けていた」(1969年度のアメリカン・ヒューマン・ソサエティの調査 ★2)という報告からも知られるようにこの子どもへの暴力は次の世代へと確実につなげられてゆく。暴力を受けたものが暴力を行使する側へまわってゆくという暴力の基本的な循環構造・・・・・社会に浸透する暴力がある人間に圧力をかけ、この圧力は異なったエネルギーに転換されて、その人間より弱い存在へ向けられてさらなる暴力となる。そしてまたその被害者は蓄積された抑圧を解放すべく、さらに弱い存在へ向けて暴力を発する。この円環は近親相姦、強姦、挫折、敵意、情緒不安定といった様々な因子を孕んで広がり、果てしなく続く。黙認者は加害者と同質の線で結ばれ、共犯関係が錯綜する。社会のなかに、そうしたよりヴァルネラブルな存在に攻撃が仕掛けられてゆくとう構造がひそかに含まれているのだ。
このスケープゴート・メカニズムは、写真が発明されるまでは、人為によって決して生の形であれわれることはなかったが、写真は、神話化や物語の形で仮装されることなく、その本質を露呈させた。現実レベルでのスケープゴート・プロセスが写真の容赦のない眼によって鮮明に浮上するのである。写真は暴力構造を示す最良の方法であった。その方法を、より体感的にとりだしてヘルンバインは自分の絵のために使った。ダブルバインド状態からスケープゴート・メカニズムへの移行という現代社会の核心が明瞭な形でヘルンバインの一連の絵にはぬきだされている。ヘルンバインは空間の暴力の構造と流れを、どんな社会学者や精神分析学者よりも明確に感知し、それを人々に伝達しようとしている。それはおそらく絵画が写真をバネにしてたどりつける最も効果的なひとつのコミュニケーションの方法ではないだろうか。
根源的なモラル
ヘルンバインの「紅い唇」や「光の子」や「クロコダイル・ロック」のなかの包帯を巻かれ、矯正器具をかけられてかすかに息づいている少女たちの姿を見ながら、こうした子どもたちの姿を、どこかで確かに見たことがあると思った。鼻穴を封じられ、舌をきつく巻かれ、針金で顔を縛られている子どもたち・・・・・ジョン・アーヴィングの『ガーブの世界』に出てきた子どもたちとうりふたつだ。
自動車事故で眼をえぐりとられ、かつて右目があったところに一種波形の穴ができてガラスの義眼を入れたダンカン、11歳の時、2人の男に強姦され、しかも犯人たちのことを話せないように舌をかみ切られたエレン・ジェームス、晩秋の肌寒い公園でレイプされ、金切声をあげていた10歳の少女、そして鼻梁が横につぶれ、首を痛め、歯も折って、添え木をあてているヘレンと、顎を折り、舌をメチャクチャに切って針金で口を縛っているガーブ・・・・・ガーブによれば世界は、暴力と死と惨劇に満ちているグロテスクなカオスである。我々はただその感覚を麻痺させているにすぎない。
ジョン・アーヴィングが78年に発表した『ガーブの世界』は、500万部を売りつくす大ベストセラーとなり、センセーショナルな社会的事件にまで広がった彼の自伝的なニュー・ノベルである。第2次大戦中、全身を包帯で巻きつけられて入院していた負傷兵から「欲望」なしで精液をもらいうけるという一方的な性行為の結果として生まれたガーブ(彼はヘルンバインと同世代である)が東部のエリート校に進み、レスリングに熱中し、性欲に悩み、18歳で母とともにウィーンに移り、その “死んだ都市を収めてある博物館” を市街電車にのってかけめぐり、その “最もヴァルネラブルな都市” の感性を吸い込み、作家として立つ決心をする。やがてアメリカに戻り、ウィーンが提供した素材をもとに処女作『ペンション・グリルハルツアー』を世に出し、結婚して子どもをつくり、妻に裏切られ、子どもを交通事故で失い、強姦された少女を養子にし、母を暗殺され、自らも母の体内に似たレスリング・ルームで凶弾に倒れる。様々な人と事件に巻きこまれてゆくガーブの姿を断片的なエピソードで綴った、寓話と逆説とパロディと暗喩を散りばめた重層的な小説である。
ここには死と狂気に侵されたアメリカの日常が生(なま)のまま放置されている。暗殺や暴動や戦争といったパブリックなバイオレンスばかりでなく、チャイルド・アビューズや夫婦間暴力や強姦や性病といった日常生活の周辺でおこなわれているプライベートなバイオレンスがあちこちにあらわれでる。
ガーブには、子どもたちのすべてが、この暴力が渦巻く世界においては、「本で読んだことのある、抗体をもたない運命の子ども」のように思えてしまう。病気に対する生まれつきの免疫体をもたず、プラスティックの袋のなかで生活しないと、ごくありきたりの風邪にかかったとたん死んでしまう子どもたちだ。ガーブはその子どもたちをなんとか救ってやりたいと思う。「大きな素朴な願いを一つだけ叶えてやるといわれたら、ガーブはこの世の中を安全にすることと答えただろう ★3」。 “海岸病院” の異名をもつドッグヘッド港の母親の邸宅のそばの海辺で、ガープが傷ついたダンカンと散歩するさまは、ヘルンバインが描いた「イージー・ライダー」という絵にそのままダブってくる。矯正器具をはめられたヘルンバインが傷ついた子どもを肩車にのせてウィーンの夕暮れを漂っている自画像だ(彼は77年長男シリルを、79年に長女メルセデスを、81年に次男アリをもうけている。彼の絵の重要なモデルたちである)。
「5歳の子どもというのはたいていみんなアーチストだけれと、そのほとんどは創造力を学校で洗い流されてしまう。ほくは子どもたちからファンレターをもらえる数少ない絵描きの1人だと思うよ。子どもは敏感に感じるからね。批評家や美術部員や画廊は私を認めようとしないけど、私には彼らの子どもたちがついているんだよ。子どもたちは友だちだよ ★4」
ヘルンバインは、ラジカルなグロテスク絵画を描く一方で、たくさんの子どもたちのための絵を描いていた。
ウィーンのトレンド・プロフィル・バック社から出されているヘルンバインの画集『ヘルンバイン ★5』は最後の1/3ほどを「子どもたちと昆虫のために」あてている。光る木の実のちょうちんをもったクワガタや緑のラメの服を着た道化師や水玉模様のパジャマ姿でタバコをふかすお月様やバッタに乗った少女や気球にぶらさがるウサギやシルクハットをかぶった山羊たちがたくさん登場して透明な小世界をかたちづくっている。知らない人は、あのラジカル・リアリズムを追求しつくした画家と、フリードリッヒを彷佛とさせるタッチで子どもたちの親密なファンタジーの世界を描きだすこの画家とが同一人物であるとは決して思わないだろう。しかしそれは1枚の硬貨の裏表にすぎない。我々はあのグロテスクな少女の絵のなかにもカエルの手袋やドナルド・ダックの漫画や赤い風船が明確なアクセントとなって対世界を表現していたことに気づくだろう。ヘルンバインの求めているものはただひとつである。それは「この世の中を安全にすること」だ。
ヘルンバインの少女たちのむごい図像は、苦痛によって苦痛と戦う最良の方法のあかしとしてある。傷つけられた少女たちは焼けるような激痛がおさまるのをひたすらまち続けている。包帯を負かれ、水色のシーツの上にかすかな息をして横たわり、暴力が消えてしまう日が来るのを静かにまっている。
現代の表現で最も我々に深く語りかけてくるものは、複雑な社会のなかにあって、そこから逃避するのでも逸脱するのでもなく、その現状にまみれながら、純粋なモラリティの問題を扱い続けているものだとぼくは考える。それは人工のなかで汚れたモラルでは決してなく、より深く大きな透きとおったモラルである。性と暴力に関わる表現を非難したり、身体障害者や畸形の問題を扱うのはタブーであるといって自己を保障しようとする表層的なモラルではなく、人間が生と死をともに自分に対して返してやることができ、それをまっとうするための根源的なモラルである。それは社会が複雑化し、みわけがつかなくなればなるほど、逆に一層おびただしい意味の輝きを放ってくるもののようにほくには思える。アクチュアリティとは、現実相がその根源的なモラルとの間に動力学をひき起し、それを表現がかすめとった時にのみ、我々に働きかけてくるものだ。それは苦渋と解放が同居し、哀しみと痛みがさわやかに混じりあう希求の世界である。ヘルンバインの絵画は確かにそこを生き続けている。包帯を巻かれた少女たちが訴えかけているものは、いつかその金属的な痛みや意味のない収縮感や束縛感を解かれて、見せかけの感情や衒学的な保証からも逃れて、自由に世界をスキップして歩くことができる世界の回復の願いであり、我々自身の“根源的なモラル”の回路が欠損し、麻痺してゆく課程への嘆きであることを、人間存在の裸形の病める徴候がしだいに様々な形で鋭く露呈してきている今、隠蔽するのではなく、見つめ続けるというやり方で、もうはっきりと気づいてもいい頃だと思う。
★1 ゴットフリート・ヘルンバイン・インタビュー(「美術手帖」83年8月「ヘルンバインの危険な絵画」ファルコによる)
★2 ジーン・マックウェラー「レイプ 異常社会の研究」権寧訳、徳間書店。
★3 ジョン・アーヴィング『ガーブの世界』筒井正明訳、サンリオ。
★4 ★1 と同じ。
★5 GOTTFRIED HELNWEIN, HELN-WEIN, TREND PROFIR-BUCH WEIN 1981.