Selected Authors
HELNWEIN
January 1, 1989
.
Toshiharu Ito
Monograph, Libro Port Publishing, Japan
HELNWEIN ヘルンバイン写真集
Art Historian and Professor, Tokyo University of the Arts
The photographic Self-Portraits
Artist of inner Turmoil. Gottfried Helnwein's works from the 1980's are represented by the self-portraits in his "Black Mirror" series. However, these works reach far beyond the boundaries of the ordinary self-portrait. They reflect the inner wants and desperation which lies within the viewer's own self. Helnwein points out the new form of the modern self-portrait which involves the creator and viewer alike.
Helnwein
1989
HELNWEIN ヘルンバイン写真集
Photographs by GOTTFRIED HELNWEIN
Text by TOSHIHARU ITO
発行日:1989年10月30日初版第1刷
写真:ゴットフリート・ヘルンバイン
構成・文:伊藤俊治
発行者:小川道明
発行所:(株) リブロポート
    〒 171 東京都豊島区南池袋2-23-2
    池袋パークサイドビル2F
    ☎ 03-983-6191
造本・装幀:箕浦 卓
印刷・製本:大日本印刷株式会社
黒い鏡
Ⅰ. 覚醒するヴァルネラビリティ
白い子どもたち
 クロロフォルムを嗅がされて暴行を受け、虹色の光をゆらめかす水たまりに頭を浸し、心神喪失の状態で路傍に遺棄されている白いブラウスの少女、柔らかいベッドの上で頭部にぱっくりと傷口を開けた赤ん坊、熱のためにうぶ毛がすっかり逆立ち、全身は硬直し、赤い唇を震えさせている病んだ子、銀紙に包まれた大きなチョコレートを持ち、脚から血を流しながらひきつった笑いを浮べる金髪の子ども、頬や額に外科手術の荒い縫い目を刻みつけておびえる幼女、こめかみの上の絹のような淡い光沢が明るい茶色の髪と溶けあう。そして蒼白のシーツに横たわり、フォークやナイフやピンセットやメスの影におびえ、身動きもせず、静かな呼吸を繰り返す包帯少女たち・・・・・ウィーン幻想派以後にあらわれた最も衝撃的なオーストリアの画家といわれるゴットフリート・ヘルンバインの少女たちは、19世紀から20世紀にかけて、たくさんの少女画家たちがノスタルジーと感傷と濃密なイマジネーションでつくりあげた蠱惑的な薄暗い小世界から、いきなり明るみに引きずりだされる。
 そこにはバルテュスの「部屋」のなかの少女たちが発散する時間への妖しい郷愁もなければ、シーレが「ゲルテ」に描いたような生へ連がるエロスのダイナミズムを秘めたかけがえのない存在としての少女もいない。さらにはクリムトの「メダ・プリマヴェージの肖像」のなかの少女から女へ変わる微妙な季節にあらわれる熱っぽい性へのオブセッションもなければ、ベルメールの「人形」のような恍惚と責苦の間に少女を位置させるような黒いエロチシズムも見ることはできない。
 少女はバタイユのシモーヌのように聖性のシンボルでも、ナボコフのロリータのような至福空間をかたちづくるイメージでも、キャロルのアリスのような狂気を優しく封印してくれる愛らしさでもない。
 ヘルンバインの “白いこどもたち”は、小宇宙のなかにとどまってはおられず、現実に揺り戻され、抗体を取り外され、生(なま)の刺激や病いをなんの前ぶれもなく、強引に、全身的に浴びせかけられる。少女たちは錯綜した現実感の真只中に放り投げられ、緊張する空気との接触によって激しい不安に追いやられ、見えない暴力の横行する空間に拉致されて様々な傷を受ける。ヘルンバインが描いているのは、少女ではなく、現実の空気の可視的な模型であるのかもしれない。少女たちはただその社会のテクスチュアのなかで絶え間なく傷つけられている存在のあかしなのだ。
 少女たちだけではない。我々もまた現実のなかで常にこの空気にされされている。我々が傷つかない、いや傷ついていないと思うのは、我々が中枢神経網の整った成人であり、特殊な刺激に対して麻痺という反応で体勢を立て直す方法を知っているからである。強度の刺激に対し、我々の中枢神経は、その刺激で損われている器官や機能を自己防衛のために切り離すすべを知っている。中枢神経を脅かすものはすべて封じ込められ、局部化され、分析され、問題を起こしている器官の全面摘出にまでいたるのである。
 今日のように我々の感覚がメディアによって拡張し、曝されている状況においては、我々はそれを麻痺させなくては自己を維持できないだろう。戦略的に神経に麻酔をかけ、無感覚にしていっているのだ。しかし、そこには暴力や刺激に対する正確な自己認識は成立しない。この世界全体が、痛みを感じないような一種の催眠状態(ヒブノシス)におちいってしまう。
 けれどもヘルンバインの少女たちを凝っと見ていると、自分を幾重にも覆っていた薄い防禦膜が一枚ずつ確実に剥がされてゆくような気になる。体の層が透過され、「私」の皮膚は少女の肌へ連がってゆく。自分の傷つきやすさが知らずに蘇ってくる。ヘルンバインは人間のなかで最も傷つきやすい「少女」というものの形象を借りて、我々の偏向した感覚の矯正をおこなっている。少女たちと同じレベルで、自分の感覚を切断することも麻痺させることもなく、自らを取り巻いている本当の状況を、強烈で直接的な経験として、体感的にタブローのなかに刻印してみせるのだ。傷つけられてゆくのになんのなすすべもない脆弱なものの側に立った悲痛な眼差しを貫くことによって、個の内と外を同時に冒してくる見えない暴力性を絵に曝しだす。すべてのものが共有しているごく日常的な知覚的事実としてである。克明な描写のなかに恐怖や亀裂や精神的外傷が、普遍的な暴力の構造が現象としてあぶりだされる。我々のなかのものが絵の前で試されている。
時代の病理
 ゴットフリート・ヘルンバインは1948年にウィーンに生まれた。ウィーンは1938年のナチス占領の開始から1945年まで、さらにはその終戦の年からソ連の占領が終わる1955年までの計17年間、外国に占領されていた都市である。戦後まもなくの1948年は、強姦のために生まれた赤ん坊の数は驚くほど多かったが、普通に生まれた赤ん坊の数は極端に少ない。子どもを育てるにはふさわしくないと判断したウィーン人がほどんどだったためであるという。ヘルンバインは “時代の病患に最も敏感に反応する町”で、そうした少数者として、“自分に似た人間がまわりにひとりもいないという感覚”のなかで少年時代を過した。
 20世紀初頭にウィーン分離派の領主グスタフ・クリムトのもとに集まり、1910年代に大きく花開いたウィーン表現主義の画家たち、ココシュカ、シーレ、ゲルストル から、第2次大戦直後にウィーン美術アカデミーのギュテルスロー教授のもとで研摩し、1960年代に国際的な評価を得たウィーン幻想派のハウズナー、フックス、フッター、レームデン、ブラウアーにいたるまでの20世紀オーストリア美術に一貫して流れる黙示録的な衝撃力の洗礼をヘルンバインは受けている。彼もまたココシュカが描いた童話 “夢見る少年たち”の1人なのだ。極度に鋭敏で繊細な子どもたち・・・・・いつのまにか心に傷を受けてしまう世代は、内部に壮麗なビジョンを生み、克明な観察を外部へはりめぐらす。
 ウィーンという土壌に深く根ざされた “皮下に達する” リアリスティックなアートの視点を受け継ぎ、臨床学的な痕跡の助けを借りて、精神環境を表現しようとする方向へ彼は向っていった。
 1965年、教育と実験のためのグラフィック専門学校へ入学し、4年後、ウィーン美術アカデミーの“最初の心理分析の画家”ルドルフ・ハウズナー教授の教室に進んでからはメキメキと頭角をあらわし、マスター・スクール賞を受賞したり、最初のスタジオを与えられたりしている。70年にはウィーンのナイト・ギャラリー・アトリウムで最初の個展、71年にはグループ「ツェトウス」を設立しグループ展をおこない、さらにメートルリンクのギャラリーDで個展をやり、その過激さゆえに作品が市長に没収されるという異常事態が起り、この頃から、硬直した美術界や美術教育に対する批判的言動が激しくなり、要注意人物として官憲からマークされるようになる。
 翌72年には新聞社でおこなった個展が、「グロテスク」「残酷」というジャーナリストたちの抗議により3日間で閉幕に追いこまれ、この年以後、ヘルンバインは自分の仕事の主要な発表の場を新聞からレコード・ジャケットまでのマス・メディアの求めるようになってゆく。「プロフィル」誌に、「オーストリアの自殺」特集のための表紙を描いたのが始まりであった。
(子どもが手首をカミソリで切って血を噴き出している最中の情景を描いたこの表紙は、読者から強い反発が起こり、その多くが予約購買を解消した。)
「今の時代、美術は壁のポスターやレコード、雑誌でおこなわれている。500年後に “20世紀の芸術とは何だったのか?”と誰かが考えた時、どうだろう、彼は『12音階音楽』を思うだろうか、それともトーマス・ベルンハルトやフルクサスを思うだろうか。私は彼が考えるのは、ロックンロールやハリウッドやドナルド・ダックだと思うね。今世紀の最もおろかな考えは、アートを “まじめなもの”と、“楽しいもの”とに分けることだよ。私には信じられない。つまりまじめなものは価値があり、楽しいものは質が劣るということだ。私に言わせれば、楽しくないものは面白くないし、強い体験を提供できないものはアートではないんだよ ★1」
 74年に彼は「プレイボーイ」誌のためにギュンター・グラスの「左利き」のイラストレーションを描いたのをきっかけに、やがてオーストリアだけでなく、広くドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどに積極的に出かけていって自己の表現をマスコミに通し始めた。「デア・シュピーゲル」誌の「婦女暴行」特集のための表紙、「クローネン・ツアイトウンク」誌にフットボール・スター、ハンス・クランクスの肖像、スコーピオンズのLP「ブラックアウト」のための絵「医学」、「プロフィル」誌の「アレルギー」特集や「ヘロイン」特集や「強姦」特集のためのカバー、「シュテルン」誌のためのミック・ジャガーのポートレイト、「タイム」誌のための「性病」をテーマにしたカバー・・・・・へルンバインが起用される時の題材の特異さに注目すべきだろう。
 さらに彼は「ペントハウス」誌や「エスカイヤ」誌、「オムニ」誌などに大きく紹介されてゆくが、そうしたメジャーな仕事とは別にパーソナルな活動やアクションも平行しておこなっていたことを記しておかねばならない。
生命のヴァルネラビリティ
 76年にはウィーンにディーター・シュヴェルトバーガーと「芸術とコミュニケーションのためのセンター」(展示会、コンサート、映画、読書、アクションのためのもの)をオープンさせ、国際児童年の催しに参加し、エドガー・アラン・ポーの作品のためのドローイングの個展を開き(アルベルティーナにて79年)、路上イベントの写真を撮り、82年にはラジオ番組で、中性子爆弾の発明者を名指しで批難、また学校での美術教育システムを批判し、自殺率の高さを指摘し、学校を離れて1日を過してみることを若い人たちへ呼びかけている(この番組は打ちきられたまま再開されないでいる)。 
 非行、麻薬禍、自殺、核、性犯罪といった社会暴力の問題が急速に浮上してきて、ジャーナリズムがもはやそれを避けて通ることができなくなっていった70年代中頃から、へルンバインはそうした特集を組む雑誌の誌面を活性化するアーチストとして大きくクローズアップされ、マス・メディアに迎えられるようになっていった。そしてその絵のタッチは年ごとに強いインパクトを持つようになってゆく。
 へルンバインの絵の第一の特質は、まずその写真性といえるだろう。彼の絵はほとんどが自ら撮った写真をベースにして描かれている。自分の長女メルセデスに包帯を巻きつけて路上に放置した写真や事故で顔が変形したカーレーサー、ニキ・ラウダの肖像などを見れば、その写真家としての資質にもなみなみならぬものがあることがわかる。彼の前世代であるウィーン幻想派の画家たちがおちいった絵画的な限界をへルンバインは写真の眼によって突き抜けようと欲した。「象徴」と「比喩」で曖昧にされた無意識の流れを “他者の眼” によって顕在化しようとした。
 この点において、へルンバインは彼の活動開始とほとんどパレレルにアメリカで起っていた、リチャード・マクリーンやジェームス・ヴァレリオ、チャック・クロースらによるラジカル・リアリズムの一派と通底しあう。皮膚呼吸や発汗作用までもすくいとろうとする写真レンズの視点は彼らに共通するものであり、彼らはともに、対象の侵入を、日常における人間の麻痺した眼差しではなく、無防禦な白痴化した人や無垢な嬰児の眼とそっくりのカメラの眼差しを借りて、全的に受け入れようとした。
 しかしアメリカのラジカル・リアリズムの画家たちの多くは、バイク、自動車、ウインドウ、ネオンといった無機物や、牛、馬、野菜、樹木などの動植物へ向っていったし、人間を相手にした画家たちでさえ、そのほとんどは人体の部分を描いたり、無感動な表情を強調したり、無機的な都市風景に埋没している人物をテーマにするという具合だった。そこには経験も感情もなく、ただ観察あるのみであり、それが彼らの根本的なポリシーとなった。
 へルンバインのラジカル・リアリズムが特異なのは、その視線の多くが恐怖や苦痛や苦悩が表面をかすめさってゆくまさにその一瞬の人間の生理的条件にまで向けられているという点だろう。彼は人間を写真に撮る時、そのようにして撮る。写真の最も写真らしい特質を前面に押しだし、それは鋭く、深く、瞬時に我々を切りつけ、破裂寸前の感情、冴えた空気がヴィヴィッドに伝わってくる。
 写真の死性、暴力性を強く意識した眼差しといえるだろう。写真の形象は空間暴力の本質をあらわしてはいないだろうか。写真は自分の死に向かって進んでいる生命のヴァルネラビリティを明らかにする。一瞬のうちに現在を過去に、生を死に変質させる写真の出現によって死の機械化は一拠に定着されたことを思いおこす必要がある。一枚の写真は、人間と死との関係を描いたどんな芸術作品よりも(例えば “死の舞踏” をテーマにした一連の絵画郡よりも)直接的、感覚的にその関係を露呈し、真実性を帯びていたのだ。
 ヘルンバインが写真を使ったのは、写真が空間の死性をあらわす最も特異なメディアとなっていつのまにかまわりにたちこめていたからである。写真の拡散と浸透によって、死の映像は麻酔をかけられ本質的な現実味を失い、我々の感覚もまたあらゆる残虐性に対して感覚を麻痺させていたとしても、写真は生から死への移行を機械化する手段として変わらずにあり、写真の死に対するこの無感情は、我々が気づかない大きな影響を我々自身に及ぼし、死への感覚はより深い亀裂となって現代の深層に宿っている。
 ヘルンバインはそうした写真の意味を認知して、自らの絵にこの写真性を取りこもうとした。写真が他者の侵入の様態を体現していることを彼は知っていた。そして写真が現代の空間の構造そのものであることを彼は絵で原理的に示そうとしたのである。空間を支配しているのは、交感(コミュニケーション)ではなく、暴力(デス・コミュニケーション)であることを。
見えない暴力
 
 表面的な、外的な暴力ばかりではなく、見えない循環する暴力が今、我々のまわりを流れている。この無差別の相互的な暴力から救済されるには循環の自己分断を繰り返す他はないが、これには臨界点があり、それを越えると自爆する。この危機をのりきるために発動されるのが、スケープゴート・メカニズムと呼ばれるものである。錯綜し、混乱し、自己に累積してゆく暴力をどこかへアースするのだ。差異を見つけてより弱い、より暴力にまみれていない部所へ暴力を通す。これによって秩序は、無差別の暴力から救済され、かろうじて定位する。現代社会ではこのスケープゴート・メカニズムが、奇妙な形になって、いわば 〈気体状〉になってすみずみにまで浸透している。抑圧されたものが次から次へとより弱い者へ、より弱い者へと暴力をふるうチェーン・バイオレンスの構造、暴力は連鎖し、最も弱い所へ集中する。人間のレベルではスケープゴートはいつも子どもたちだ。少年少女が、新生児が、胎児がこの無慈悲な犠牲者となる。そして、「ニュージャージィーの150人の幼児強姦者を調査した結果、その75%が子どもの時に性的虐待を受けていた」(1969年度のアメリカン・ヒューマン・ソサエティの調査 ★2)という報告からも知られるようにこの子どもへの暴力は次の世代へと確実につなげられてゆく。暴力を受けたものが暴力を行使する側へまわってゆくという暴力の基本的な循環構造・・・・・社会に浸透する暴力がある人間に圧力をかけ、この圧力は異なったエネルギーに転換されて、その人間より弱い存在へ向けられてさらなる暴力となる。そしてまたその被害者は蓄積された抑圧を解放すべく、さらに弱い存在へ向けて暴力を発する。この円環は近親相姦、強姦、挫折、敵意、情緒不安定といった様々な因子を孕んで広がり、果てしなく続く。黙認者は加害者と同質の線で結ばれ、共犯関係が錯綜する。社会のなかに、そうしたよりヴァルネラブルな存在に攻撃が仕掛けられてゆくとう構造がひそかに含まれているのだ。
 このスケープゴート・メカニズムは、写真が発明されるまでは、人為によって決して生の形であれわれることはなかったが、写真は、神話化や物語の形で仮装されることなく、その本質を露呈させた。現実レベルでのスケープゴート・プロセスが写真の容赦のない眼によって鮮明に浮上するのである。写真は暴力構造を示す最良の方法であった。その方法を、より体感的にとりだしてヘルンバインは自分の絵のために使った。ダブルバインド状態からスケープゴート・メカニズムへの移行という現代社会の核心が明瞭な形でヘルンバインの一連の絵にはぬきだされている。ヘルンバインは空間の暴力の構造と流れを、どんな社会学者や精神分析学者よりも明確に感知し、それを人々に伝達しようとしている。それはおそらく絵画が写真をバネにしてたどりつける最も効果的なひとつのコミュニケーションの方法ではないだろうか。
根源的なモラル
 ヘルンバインの「紅い唇」や「光の子」や「クロコダイル・ロック」のなかの包帯を巻かれ、矯正器具をかけられてかすかに息づいている少女たちの姿を見ながら、こうした子どもたちの姿を、どこかで確かに見たことがあると思った。鼻穴を封じられ、舌をきつく巻かれ、針金で顔を縛られている子どもたち・・・・・ジョン・アーヴィングの『ガーブの世界』に出てきた子どもたちとうりふたつだ。
 自動車事故で眼をえぐりとられ、かつて右目があったところに一種波形の穴ができてガラスの義眼を入れたダンカン、11歳の時、2人の男に強姦され、しかも犯人たちのことを話せないように舌をかみ切られたエレン・ジェームス、晩秋の肌寒い公園でレイプされ、金切声をあげていた10歳の少女、そして鼻梁が横につぶれ、首を痛め、歯も折って、添え木をあてているヘレンと、顎を折り、舌をメチャクチャに切って針金で口を縛っているガーブ・・・・・ガーブによれば世界は、暴力と死と惨劇に満ちているグロテスクなカオスである。我々はただその感覚を麻痺させているにすぎない。
 ジョン・アーヴィングが78年に発表した『ガーブの世界』は、500万部を売りつくす大ベストセラーとなり、センセーショナルな社会的事件にまで広がった彼の自伝的なニュー・ノベルである。第2次大戦中、全身を包帯で巻きつけられて入院していた負傷兵から「欲望」なしで精液をもらいうけるという一方的な性行為の結果として生まれたガーブ(彼はヘルンバインと同世代である)が東部のエリート校に進み、レスリングに熱中し、性欲に悩み、18歳で母とともにウィーンに移り、その “死んだ都市を収めてある博物館” を市街電車にのってかけめぐり、その “最もヴァルネラブルな都市” の感性を吸い込み、作家として立つ決心をする。やがてアメリカに戻り、ウィーンが提供した素材をもとに処女作『ペンション・グリルハルツアー』を世に出し、結婚して子どもをつくり、妻に裏切られ、子どもを交通事故で失い、強姦された少女を養子にし、母を暗殺され、自らも母の体内に似たレスリング・ルームで凶弾に倒れる。様々な人と事件に巻きこまれてゆくガーブの姿を断片的なエピソードで綴った、寓話と逆説とパロディと暗喩を散りばめた重層的な小説である。
 ここには死と狂気に侵されたアメリカの日常が生(なま)のまま放置されている。暗殺や暴動や戦争といったパブリックなバイオレンスばかりでなく、チャイルド・アビューズや夫婦間暴力や強姦や性病といった日常生活の周辺でおこなわれているプライベートなバイオレンスがあちこちにあらわれでる。
 ガーブには、子どもたちのすべてが、この暴力が渦巻く世界においては、「本で読んだことのある、抗体をもたない運命の子ども」のように思えてしまう。病気に対する生まれつきの免疫体をもたず、プラスティックの袋のなかで生活しないと、ごくありきたりの風邪にかかったとたん死んでしまう子どもたちだ。ガーブはその子どもたちをなんとか救ってやりたいと思う。「大きな素朴な願いを一つだけ叶えてやるといわれたら、ガーブはこの世の中を安全にすることと答えただろう ★3」。 “海岸病院” の異名をもつドッグヘッド港の母親の邸宅のそばの海辺で、ガープが傷ついたダンカンと散歩するさまは、ヘルンバインが描いた「イージー・ライダー」という絵にそのままダブってくる。矯正器具をはめられたヘルンバインが傷ついた子どもを肩車にのせてウィーンの夕暮れを漂っている自画像だ(彼は77年長男シリルを、79年に長女メルセデスを、81年に次男アリをもうけている。彼の絵の重要なモデルたちである)。
「5歳の子どもというのはたいていみんなアーチストだけれと、そのほとんどは創造力を学校で洗い流されてしまう。ほくは子どもたちからファンレターをもらえる数少ない絵描きの1人だと思うよ。子どもは敏感に感じるからね。批評家や美術部員や画廊は私を認めようとしないけど、私には彼らの子どもたちがついているんだよ。子どもたちは友だちだよ ★4」
 ヘルンバインは、ラジカルなグロテスク絵画を描く一方で、たくさんの子どもたちのための絵を描いていた。
 ウィーンのトレンド・プロフィル・バック社から出されているヘルンバインの画集『ヘルンバイン ★5』は最後の1/3ほどを「子どもたちと昆虫のために」あてている。光る木の実のちょうちんをもったクワガタや緑のラメの服を着た道化師や水玉模様のパジャマ姿でタバコをふかすお月様やバッタに乗った少女や気球にぶらさがるウサギやシルクハットをかぶった山羊たちがたくさん登場して透明な小世界をかたちづくっている。知らない人は、あのラジカル・リアリズムを追求しつくした画家と、フリードリッヒを彷佛とさせるタッチで子どもたちの親密なファンタジーの世界を描きだすこの画家とが同一人物であるとは決して思わないだろう。しかしそれは1枚の硬貨の裏表にすぎない。我々はあのグロテスクな少女の絵のなかにもカエルの手袋やドナルド・ダックの漫画や赤い風船が明確なアクセントとなって対世界を表現していたことに気づくだろう。ヘルンバインの求めているものはただひとつである。それは「この世の中を安全にすること」だ。
 ヘルンバインの少女たちのむごい図像は、苦痛によって苦痛と戦う最良の方法のあかしとしてある。傷つけられた少女たちは焼けるような激痛がおさまるのをひたすらまち続けている。包帯を負かれ、水色のシーツの上にかすかな息をして横たわり、暴力が消えてしまう日が来るのを静かにまっている。
 現代の表現で最も我々に深く語りかけてくるものは、複雑な社会のなかにあって、そこから逃避するのでも逸脱するのでもなく、その現状にまみれながら、純粋なモラリティの問題を扱い続けているものだとぼくは考える。それは人工のなかで汚れたモラルでは決してなく、より深く大きな透きとおったモラルである。性と暴力に関わる表現を非難したり、身体障害者や畸形の問題を扱うのはタブーであるといって自己を保障しようとする表層的なモラルではなく、人間が生と死をともに自分に対して返してやることができ、それをまっとうするための根源的なモラルである。それは社会が複雑化し、みわけがつかなくなればなるほど、逆に一層おびただしい意味の輝きを放ってくるもののようにほくには思える。アクチュアリティとは、現実相がその根源的なモラルとの間に動力学をひき起し、それを表現がかすめとった時にのみ、我々に働きかけてくるものだ。それは苦渋と解放が同居し、哀しみと痛みがさわやかに混じりあう希求の世界である。ヘルンバインの絵画は確かにそこを生き続けている。包帯を巻かれた少女たちが訴えかけているものは、いつかその金属的な痛みや意味のない収縮感や束縛感を解かれて、見せかけの感情や衒学的な保証からも逃れて、自由に世界をスキップして歩くことができる世界の回復の願いであり、我々自身の“根源的なモラル”の回路が欠損し、麻痺してゆく課程への嘆きであることを、人間存在の裸形の病める徴候がしだいに様々な形で鋭く露呈してきている今、隠蔽するのではなく、見つめ続けるというやり方で、もうはっきりと気づいてもいい頃だと思う。
★1 ゴットフリート・ヘルンバイン・インタビュー(「美術手帖」83年8月「ヘルンバインの危険な絵画」ファルコによる)
★2 ジーン・マックウェラー「レイプ 異常社会の研究」権寧訳、徳間書店。
★3 ジョン・アーヴィング『ガーブの世界』筒井正明訳、サンリオ。
★4 ★1 と同じ。
★5 GOTTFRIED HELNWEIN, HELN-WEIN, TREND PROFIR-BUCH WEIN 1981.
Ⅱ. 変容するイマーゴ

暴力の記憶
 ゴットフリート・ヘルンバインの新作に「ブラック・ミラー」と名づけられた一連のシリーズ(1987)がある。恐怖小説の巨匠スティーヴン・キングの『ゴールデン・ボーイ』にインスピレーションを得たものだ。
 アメリカの片田舎の12歳の少年が、その田舎町での単調な生活に飽き、他の子供たちがみなスーパーマンやミッキーマウスに夢中になっているのに自分だけは第2次大戦中のドイツの強制収容所の記録や読み物に熱中する。
 その記録を見たり、読んだりするたびごとに、少年は「彼らは本当にそんなひどいことを現実にやったんだ」と驚き、ゾクゾクとしたものが体のなかを走ってゆく。そしてある日いつも通るバス停で、少年は収容所の記録写真のなかで見たことのある顔を見つける。髑髏の勲章のついた黒い帽子を被り、ナチの黒い制服を身につけていた忌わしい男の顔が少年の現実の世界に突然あらわれたのだ。少年はその男に秘密の手紙を出し、なぜあなたはあんなむごいことをしたのかと尋ねる。その男が本当のナチの親衛隊員だったのかわからなかったのだが、返事が少年のもとへ届き、その手紙には、自分の命を救うためだったという理由がしたためられていた。
 少年のなかで、単なる好奇心が、実際の体験への欲望に変わってゆく。そして彼ら2人は〈殺人同盟〉をつくり、小さな犬や乞食や「生きる価値のないもの」を次々と殺害してゆく— 。
 ヘルンバインの連作はこうした物語を踏まえながら彼独自の〈黒い鏡〉の世界を生みだしている。「ブラック・ミラーⅠ」では、白をバックにどす黒いヘルンバイン自身の頭部が包帯でぐるぐる巻きにされ、まるで硬い岩のように突出している。眼と口に強制具をかけられ、彼は見ることも話すこともできず、〈無言のメッセージ〉を発してくる。「ブラック・ミラー Ⅱ」はそのアップの写真で、黒い薄い包帯の向うに彼の絶望的な苦悩の表情がうっすらと浮びあがる。さらに「ブラック・ミラー Ⅲ」は背景が黒に変わり、怪物然としたヘルンバインの頭が何か激しい叫びをあげているかのように天に向って突きささっている。黒い肉体を地に金属がにぶい、白い光を放つ。それはヘルンバイン自身に加わる暴力の総量をこの〈黒い鏡〉へたたきこんでいるかのようだ。
 もちろんこうした光景によってヘルンバインは、あのナチの拷問の秘儀を浮上させようとしていることはまちがいないだろう。
 拘禁室での様々な拷問、先のとがった材木の上にひざまづかせ、その肩に拷問者がのしかかる。腕を後手にしばってぶらさげ、気絶するまでほうっておく。足で蹴り、拳でなぐり、鞭で叩く。歯をヤスリで削り、爪を剥ぎ、バーナーやタバコで皮膚を焼く。濡れたコードをプラグにさしこみ、体におしつける。
 あるいはその背景の密室感覚はダッハウの低圧室を思い起こさせる。頭に圧力を加え続けるとその人間は発狂状態になり、圧力を何とかゆるめようと、髪の毛をかきむしったり、自分の肉体を切り裂こうとるするというあの死の舞踏だ。さらにその「ブラック・ミラー」の金属と手術室の匂いは、人工ホルモン実験、血清学実験、骨や筋肉への外科実験、安楽死実験、毒性実験といった一連のナチの医学実験を彷佛とさせるかもしれない。
 個人の外部と内部を圧迫する得体の知れない、不気味な暴力、我々はその暴力を見たわけでも、体験したわけでも、その血や汗の跡が体に染みついているわけでもないのに、その連作を見ていると彼らがあの時吸いこんだ匂いや汚臭が突然、胃壁をつたって這いのぼってくる— 。
新しい頽廃美術
 しかし、今、なぜヘルンバインが再びこうしたファシズムの暴力を直接的なテーマにした連作を続けなければならないのだろうか。それを知るためには彼の軌跡をあらためてたどらねばならないだろう。
 1945年、ヒトラー政権が崩壊したのち、ウィーンには新しい美術運動が生まれている。
 クリムトやシーレやココシュカやゲルストルらによって代表されるそれまでのウィーン美術が大きな変貌をとげ、突如として若い画家たちが登場してくるのだ。
 ルドルフ・ハウズナーを筆頭とするブラウアー、フックス、フッター、レームデンといったそうした画家たちの多くは1920年代生まれだった。彼らはウィーンの〈超現実主義者〉と呼ばれ、「プラン」という機関誌を発行し、1956年、美術評論家ヨハン・ムシックにより〈ウィーンの幻想リアリズム〉としてまとめられることになる。
 しかし、なぜ第2次大戦後、突如として、この〈ウィーン派〉が出現してきたのだろうか。
 1945年に15歳から18歳だった彼らが絵筆をとったのは、もちろんその思春期の苛酷な体験を何とか表出したかったからに他ならない。確かに彼らの絵の軌跡を見てゆくと、15歳の時、何を見たかがその人間の一生を決めてしまうということの意味がよくわかる。 
 ウィーンの20世紀美術館長だったアルフレッド・シュメラーはこう書いている。
「第2次大戦末期のウィーン、彼らの体験とは爆撃という地獄であり、非人道的な殺戮と逃亡であり、同時にヒトラーの暴力からの突然の解放であったことを思いだしていただきたい。これらの若い画家たちが極度に鋭敏で、繊細な子供だったとしても不思議はなく、この鋭敏な世代に、戦中、戦後の衝撃は大きく作用したのである ★6」
 心に深く、あてどない傷を受けた世代である彼らは、そのトラウマを原点にして内的な壮麗なヴィジョンを展開し、やがてその独特な眼差しを奥へ奥へと移動させてゆく。
 ものごごろついて初めての意識体験は強烈な圧迫感で彼らのまわりを包みこみ、戦争や廃墟や政治不安が自己を大きく揺るがしていったのである。
 ルドルフ・ハウズナーの絵画精神を受け継ぐゴットフリート・ヘルンバインの絵も、そうした時代揺籃の影を深く宿しているといっていいだろう。
 1948年にウィーンに生まれたヘルンバインは、成績不良のためギムナジウムを追放され、17歳の時、グラフィック専門学校に入学するが、そこで自分の肉体をカミソリで傷つけたり、拘束したりするハプニング・スタイルでのアクションを起こして教師陣から総スカンをくい、ウィーン美術アカデミーのルドルフ・ハウズナー教授の教室へ入ることになる。
 ここでもヘルンバインは傷つけられた子供たちや虐待される子供たちを超写実的な手法で描き続け、70年にはマスター・スクール賞をもらって最初のスタジオを与えられている。そして1971年、美術アカデミーの入学試験の会場へ学生代表が入ることを教授会が拒んだため、ヘルンバインらは行動を起こし、教授たちは軟禁され、校長が「行動は純粋に政治的であるべし」と声明し、行動と試験は終息したという。
 特筆すべきはボンデージや外科器具を使った最初のセルフ・ポートレイト写真をこの時期に制作していることだ。これらの写真には、傷をつけたり、薬品で変色させたりといった操作が加えられることもあった。また最初のパブリックなアクションを路上やカフェでおこなっている。不具の子供たちをテーマにした絵画の展覧会とともに、暴力と恐怖に対する抗議運動をウィーンに近いメートルリンクのギャラリーDでおこなったのもこの年である。ヘルンバインの〈作品〉は、このように常にアクションと写真と絵画がむすびついた形で進行していることに注意したい。
 しかし、こうしたラジカルなヘルンバインの行動に対する反応も連鎖的に起り、クンストラー・ハウスでの展覧会ではとうとうナチのスローガンだった〈頽廃美術〉のステッカーをその絵にはられてしまうまでになる。
ヘルンヴァインの変容
 その後も、15人のボンデージ・チルドレンを主人公にしたアクション「白い子供たち」(1974)、アメリカ滞在 (1977)、エドガー・アラン・ポーのためのドローイング展 (1979)、ドイツとオーストリアの共同製作によるTV番組「ヘルンバイン」(1984) と、センセーショナルな話題を次々と巻き起こすが、1985年、ウィーンのアルベルティーナで個展を開いたあとドイツに移住し、ケルンの近くで制作を始めるようになってからヘルンバインの作品は大きく変わってゆくことになる。
 まずこの年からヘルンバインは多画面構成(通常は3面だが、2面のこともある)のビッグ・サイズ (2X5m、あるいは2X6mといったものが多い)の作品の制作を開始している。
 各画面は写真であったり、複製の名画であったり、アクリルとオイルによる抽象的なパターンであったりする。
 例えば「半人の神」(1986) では、頭からダラダラと血を流し、白い服を血だらけに汚して、拷問を受け、殉教者の耐えるポーズをとるヘルンバイン自身の大きな写真が真中の画面に置かれ、その両側に十字架を突き立てた山に登る人を描いたカスパル・ダーヴィット・フリードリッヒの「ライゼンジバーバの朝」の複製と、スワスティカのマークを機体につけた戦闘機の離陸シーンを捉えた戦争写真が並置される。右手に平和や秩序や自然と人間の調和を示すロマンチックなランドスケープがあり、左手に戦争とカオスと激動をあらわすメカニカルなマシーン・イメージがある。ヘルンバインはその対照的なイメージのはざまでその両方を受け入れている。
 あるいは「証拠」(1986) では、包帯で顔じゅうをぐるぐる巻きにされたヘルンバインがまるでロープで首を吊った使者のように中央の画面に垂れ下がり、その左手にはヒットラー、ヒムラー、カイテルといったナチスの指導者たちを写したカラー写真が、その右手にはオイルとアクリルによる血だらけの頭部のような形象が、同時にモンタージュされる。 
 二つ目は、この年からスコーピオンズのLP「ブラックアウト」のジャケットにも使われた、フォークの強制具で目隠しをされ、絶叫をあげているヘルンバインのセルフ・ポートレイトをモチーフに、これもビッグサイズ (2X5m、2X3m) で、3面構成のセルフ・ポートレイト・シリーズをつくっていることである。ここでは初めは人間の顔をして叫び声をあげていたヘルンバインが、しだいに鼻や口や目を喪失し、赤や緑や黒の怪物やフリークスになってゆく様をひとつひとつの画面の軌跡を通してたどってゆくことができる。そしてその最後の作品「セルフ・ポートレイト14、15」(1987) では、まっ白な画面に溶けてゆくヘルンバインと、まっ黒な画面に消失してゆくヘルンバインとが2面構成によって定位されている。
 最後に注目しなければならないのは、シンディ・シャーマンの「アンタイトルド・フィルム・スチール」シリーズを思い出させるような自己劇化を試みるセルフ・ポートレイト写真を始めたということだろう。ここではヘルンバインはナチの親衛隊員になったり、盲人になったり、殉死者になったり、迫害者になったりしている。目隠しをされ、戦闘機が炎上する基地のなかをさまようヘルンバイン、廃墟となった市街の片隅で血を流すヘルンバイン、ナチの制服を着て娼婦と戯れるヘルンバイン、戦車に乗って砲爆を繰り返すヘルンバイン、ジャングルの戦場で無数の銃弾を浴びるヘルンバイン・・・・・彼らはみな死のヒーローたちであり、その画面はいつも突発的な暴力が起こりそうな予感に震えている。
 ヘルンバインの変容にはある意味で80年代のカタストロフィーのパースペクティヴと危機のムードが凝縮されているといってもいいのかもしれない。つまりそこには戦争や災害といったものだけではなく、性的暴力やファシズム、拷問や家庭暴力といったものが、時間軸や空間軸を超えてたたみこまれているのだ。多画面構成やメタモルフォーゼ、セルフ・ステージングといった手法によってヘルンバインは世界や時代の広がりや深さを見る者に目撃させようとしている。こうした手法によって生や暴力のプロセスを立体化し、現実の感覚を再ドラマ化しようとしているのた。すでに暴力やカタストロフィーやクライシスは、こうした多層的な構造のなかでしかとらえれられなくなっていた。
 収容所の近くで森の枝をゆする音や鉛色の空や有刺鉄線の門を通りぬけていった肉体がそこにはこめられている。炭化した肉の甘い臭いが漂いめぐっている霧のなかを歩いた肉体がそこにはある。熱気の陽炎がたつ戦場に舞う絶叫や光の渦のなかを突き進む肉体がそこには存在している。やせて、ひからびたパンのような顔をした男のうめきや、何かをしゃぶっている音、低い話し声、腫れものや、うんでいる傷口、麻痺している感覚、そうしたものがそこには充満している— 。
恐怖とセルフ・ポートレイト
恐怖は〈正常〉と〈異常〉との複合した感覚である。そしてこの恐怖のオブセッションのなかで我々は絶えず次のような質問に直面させられてしまう。
 何が〈正常〉なのか。何が〈異常〉なのか。どこに〈怪物〉がいるのか。誰が〈正気〉なのか。何が〈狂気〉なのか。どのような歴史的、社会的、道徳的、肉体的な現実性が組みあわさり、我々が〈怪物〉や〈異常〉や〈狂気〉と呼ぶものをかたちづくっているのだろうか。
 通常、恐怖という感情は、〈正常〉なものへの〈異常〉なものの侵入を核心に置いている。ヘルンバインの行為もこの事実をしっかりと認識し、その侵入のプロセスを作品のなかへ投影しようとしている。しかし、彼がめざしているのは、この恐怖を、単なる恐怖として表出させることではない。彼が考えていることは、この恐怖の感情によって、我々は自己をより深く生き、境界や限界を超え、恐怖と悦びとが厳密に区別されない領域へ入りこんでゆけるということなのだ。
 おそらくそうしたことをヘルンバインが強く意識するようになったのは80年代に入ってからなのではないだろうか。
 もちろん、その初めからヘルンバインの作品は見る者を困惑させ、不安をかきたて、挑発し、その多義的なイメージにより、深い根を持つ感情に働きかけてきた。しかし、それは、社会に充満する暴力の存在や時代の構造的な不安の存在を指し示していたにすぎなかったともいえるだろう。それが時代を経るにつれ、ヘルンバインの作品には、灰色の曖昧な状態から我々を明るみへと引き出し、我々の世界の隠された側面との出会いをもたらすような普遍的な恐怖への扉が様々に用意されるようになっている気がする。
 ヘルンバインにとって恐怖とはいわば、意識と潜在意識との間の濾過スクリーンのようなものになっているのだ。 
 そしてそうした変化とともに恐怖そのものも、外から見知らぬものによってもたらされるものというより、自己の内部にもともとあって気づかなかったものという意味あいに変わっていってしまう。
 恐怖とは、見知らぬものがそこへ入りこんだ時に見出すことになる構造のなかにもともと孕まれていて、実はこの見知らぬものは見知らぬものというより、その構造の一部なのである。それをヘルンバインはこの20年近くものセルフ・ポートレイト・シリーズのなかで知ったのではないだろうか。
 フロイト派の機関紙「イマーゴ」(1914) に掲載されたウィーンの精神分析学者オットー・ランクの有名な論文「ドッペルゲンガー(分身)」の冒頭には、H・H・エーヴェルス原作の映画「プラハの学生」が紹介されている。主人公が恋や仕事の邪魔ばかりする分身に発砲したところ、胸から出血して自分も死んでしまうという物語である。この分身とは、主体と異なる身体を持った存在ではなく、主体が生みだす幻想のようなものであり、人の身体の影や鏡像や肖像もこの種の分身の系列に入ってくる。
 例えばありふれた部屋のなかに坐っていて、突然、ドアの向うに死体があると言われた時のことを考えてみよう。すると一瞬のうちに我々の坐っている部屋の空気は完全に変わってしまう。部屋のなかのすべてのものが新しい表情を帯びてくるのだ。光や雰囲気がちがったものになり、物は我々が心で考えているとおりのものとなる。 
 分身はいわば死への不安の裏返しでもあるとランクは言う。分身は死の前触れとして、死神として、恐怖そのものともなるのである。ヘルンバインはその事実へのプロセスを新しい作品のなかで具体化しようとしているかのように思える。「ゴールデン・ボーイ」の原作者であり、〈恐怖の名工〉であるスティーヴン・キングはその『深夜勤務』の序文のなかで恐怖の本質をこう語ったことがある。
「子供は恐怖をたやすく察知するが、忘れるのも早い。それで大人になってから、もう一度、学び直すのである。我々は皆、シーツの下に横たわる死体の姿を思い浮かべるように、遅かれ早かれ、恐怖がどのような姿をしているのか気がつくようになる。我々が抱く様々な恐怖が統合されて、一つの大きな恐怖になる。つまり我々の抱く恐怖はすべて大きな恐怖の部分 — 腕、脚、あるいは指や耳なのだ。シーツの下に横たわる死体は恐ろしい。それは我々自身の死体なのだ ★7」
 だからヘルンバインの近作のドッペルゲンガーは犯人でもあり、犠牲者でもあり、殉教者でもあり、悪党でもあり、懺悔する人でもあり、告訴する人でもあり、分身でもあり、自己でもあるという具合に、常に両義的な存在と化しているということもできるだろう。そこで見る者は自らを試されるのだ。
 ヘルンバインのセルフ・ポートレイトは決してヘルンバイン自身の〈自写像〉なのではない。それは見る者に対して見る者自身の思考や欲望や絶望を明らかにするスクリーンなのだ。そしておそらく80年代のセルフ・ポートレイトの意味はそこにある。この時代に、セルフ・ポートレイトはつくり手の自己を写しだすものから、見る者の内部探究をそそのかすものへと変わっていったのである。
 ヘルンバインのセルフ・ポートレイトは見る者の私的で、社会的な記憶や快楽や不安を投映する壁として機能することができる。いや、それこそがヘルンバインの変容が追求したものなのだ。彼のセルフ・ポートレイトはすべての人々の内部を写しだすミラー・イメージとなる。そしてそのヘルンバインの〈黒い鏡〉に写し出される像は、時代を経るにつれ、ますます歪み、黒々と光り、悪夢のようになってゆくように思える。
★6 「ウィーン幻想絵画展」カタログ序文より
★7 スティーヴン・キング「深夜勤務」(高畠文夫訳、扶桑社)




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